壁紙一筋60年、オオヒラケンイチの日本壁紙伝来記

「壁紙」は海外から入ってきたインテリア文化だと思っている人が多いかもしれませんが、第二次世界大戦後の復興期には、日本が外貨を獲得するための輸出産業として栄えた時期がありました。葛(クズ)や紙、絹を原料とし「壁布」とも表現された日本産の壁紙は素朴でありながらも深みや美しさを有し、アメリカやヨーロッパの富裕層に好まれたといいます。

こうした壁紙の輸出、そしてその後発展した壁紙の輸入事業に深く関わる1人の人物がいます。
株式会社テシードの初代社長を務め、2018年に会長職を退いた大平憲一、84歳。同社は「日本の壁に、もっと選択肢を」というミッションを掲げ、壁紙の輸入事業をけん引してきた企業の一つです。今回、実に60年もの月日を壁紙と共に歩んだ彼の半生と、日本の壁紙の歩みについてお話しいただきました。

大平 憲一

オオヒラ ケンイチ

1936年大阪市淀川区の十三に生まれ、9歳の時に終戦を迎える。大阪有数の進学校である北野高校卒業後、1955年に安井貿易株式会社に入社。就業しながら関西大学商学部(夜間部)を卒業した。1958年頃から壁紙の輸出事業、1962年頃から壁紙の輸入事業に携わる。1970年、家族と共に上京し株式会社義輝に入社。1988年、輸入壁紙の国内販売拠点として株式会社テシードを設立、初代社長に就任。2018年に81歳で同社を退社。サラリーマン人生のうちおよそ60年を壁紙事業に携わった。現在は、株式会社フィル、大場紙工株式会社の顧問を務める。

壁紙と共に歩んだ僕の半生・前編

高校卒業と同時に会社員として働き始め、2018年に81歳で引退しました。63年のサラリーマン人生のうち、実に60年を壁紙と深く関わり合いながら過ごしました。
一言で申しますと、非常に楽しいサラリーマン人生でした。初めて輸入したのはイギリス製のビニール壁紙で、たちまちその美しさに魅了されたことを覚えております。夜飲み歩くよりも壁紙の見本帳を眺めている方が楽しかった。色や柄を見る、というのが私の性分に合っていたのだと思います。日本の壁紙文化の発展にどのくらい貢献できたのかは分かりませんが、扱っているものを好きになるというのは、その商品を発展させる上でとても大切なことだと思います。

若い方には少々退屈かもしれませんが、私が壁紙に携わるようになるまでの経緯を、幼少の頃から振り返らせてください。
私は大阪市の十三(じゅうそう)という、工場の多く立ち並ぶ下町に生まれ育ちました。小学校に上がる頃には戦争の状態が大変激しく、もう日本は負けるんだという敗戦ムードが色濃く漂っておりました。歩いて10分の距離にある小学校への登校時に幾度かの空襲警報が鳴り、よく近くの民家に避難していたのを覚えています。2年生になる頃には授業を行うのが困難になり、同じ小学校の何十名かと箕面にあるお寺に集団疎開しました。翌年の1945年6月、大阪大空襲で市内は壊滅的な被害を受け、戻ってみると通っていた小学校は全焼し、実家もトタンで囲われただけの状態になっていました。そしてその年の8月、私が小学3年生の夏に戦争が終わりました。

こんな幼少時代を過ごしたものですから、いつも栄養失調で楽しかった思い出などはありませんし、記憶もほとんどございません。唯一鮮明に覚えているのが、終戦を間近に控えた頃に起きた出来事です。警報も鳴っておりませんでしたので新淀川の堤防沿いへ出ていると、突然真上に「グラマン」という米軍戦闘機が現れました。私は恐ろしくて腰を抜かしてしまいました。パイロットと目が合い、その表情さえ今でもはっきりと覚えておりますが、いずれにしても彼は私を機関銃で撃たなかった。それだけがその後の人生を歩んでこられた由縁となっております。

中学校を卒業後は、地元の北野高校に進学しました。進学校でしたので大学に進む同級生も多かったのですが、私は受験に失敗し、滑り止めも受けておりませんでした。これから先どうしたものかと卒業後にひょっこり高校を訪れますと、たまたま大阪市内の貿易会社の求人案内が出ていたのです。それが私の最初の勤め先となった安井貿易という会社のものでした。下駄履きで面接を受けに行き、明日から来るようにと電報で通知があったのを覚えています。父親も歳を取り始めておりましたし、どんな仕事がいいだとか夢だとかいうよりも、ただ食べるために働く。そんな時代でした。

大平家の家族写真。中央の小さな少年が憲一(当時4歳くらい) (写真提供/大平憲一)

安井貿易は東京に本社を置く会社で、繊維業の盛んだった大阪の支店では主に国内の織物流通を手掛けておりました。もともとは、御堂筋線沿いにある大阪ガスビルの向かいに当時建っていた、神戸銀行ビルの中に支店を構えていたのです。しかし、その後新たに手を出した事業が上手くいかず、小汚いビルの3坪ほどの場所へ移されてしまいました。六つ上の先輩と私の2人だけが大阪に残され、再スタートを切ることになったのです。

安井貿易は当初イミテーションパールやイグサ製の植木鉢カバーなどを輸出する、いわゆる雑貨貿易をやっておりましたが、そのうちに壁紙も扱おうということになりました。安井社長が独立前に勤めていた貿易会社が壁紙を扱っており、その頃から目をつけていたようです。これに客が付き、伸び始めたんですね。 初めて輸入したのはイギリスの《Mayfair》や《Kingfisher》というブランドのビニール壁紙です。エンボスで表現されたデザインの深みや美しい配色にひどく感動いたしました。もともと自分に合っていると思って志望した仕事ではありませんでしたが、壁紙を扱っていくうちに、自分がこういった色柄を見るのがとても好きだということに気が付きました。何時間でも壁紙の見本帳を眺めていられました。初めて見た海外製の美しい壁紙に魅了されたことが、その後長きに渡り壁紙事業に携わり続けられたきっかけだったのかもしれません。

当時デパートというところは、庶民の生活とは一線を画した圧倒的に素晴らしい場所で、きらびやかなウインドウ装飾などはみんなの憧れの的でした。そんな人の目を引くショーウインドーの装飾用に派手な海外製の壁紙が採用されたのです。最初の頃はデパート相手に商売をして実績を上げ、そのうち壁紙の事業だけが伸び残っていきました。

1964年、安井貿易東京本社の人達と。左上(高身長の男性)が憲一。その隣が安井社長。(写真提供/大平憲一)

壁紙の輸入事業を始めた頃に魅せられたイギリス《Mayfair》と《Kingfisher》のビニール壁紙。今も大平家のトイレを彩っている。(写真提供/大平憲一)

一方、当時輸出品として特に重宝されていたのは、葛から取れる繊維を原料とした「葛布」という壁紙です。素朴でありながらも深みがあり美しく、アメリカやヨーロッパの富裕層に好まれました。原料となる葛苧(くずお)の大部分を韓国からの輸入に頼っていましたが、そのうち韓国でも自ら壁紙を作って売るようになった。その方が外貨を稼げるので原料の輸出をストップしてしまったんですね。どうにか国内で調達できないかということで、葛の原料となるカンネンカズラが多く自生していた鹿児島の大隈半島へ赴くことになったのです。その半年前ほどに結婚したばかりの女房を連れて行きました。

大隈半島というのは鹿児島市内から桜島を見るとちょうど裏側に位置しており、汽車の駅もなく市内までバスで3時間もかかる辺ぴな場所でした。もともと両親が鹿児島の出身だったので当時も近隣に住む親戚がおりましたが「お前の行く大隅半島の市成(いちなり)という場所は地元民でも『嫁にもらうな、嫁に出すな』と例えるような不便な土地だぞ。本当に行くのか」と心配されたほどです。大阪とはまるで違う環境で暮らすことになり、結婚して間もなく離婚されやしないかと誠に冷や冷やいたしました。

周辺200メートル四方に何もない、外に五右衛門風呂の備え付けられた農家の一軒家で暮らしました。山に囲まれた厳しい暮らしでしたが、たまに私が鹿児島市内へ出るときには必ず女房が付いて来まして、美味しい食事を取り両手にいっぱい買い物をして帰るのが楽しみでした。でもそんなタイミングで大雨でも降りますとたちまち停電し、せっかく買ったものがだめになってしまうと大慌てで食べたものです。

新聞広告を出して地元の農家の人たちに自生した葛を集めてもらい、私は自宅のそばに建てた工場で葛の繊維を取りました。葛というのは、農家の人にとってはどんどん伸び、木に巻きついて腐らせてしまうやっかいな植物という扱いでしたので、こんなものを集める人がいるのかと不思議がられていました。5〜7月の成長期には1日に1メートルも伸びる植物で、伸びたばかりの若いツルから繊維を取ると美しい葛布ができるので作業はその時期に集中していました。高圧釜や重曹を使って葛の表皮を溶かし、芯の部分をプールのような大きい水瓶に入れて2、3日置くと繊維が分離して取り出せるのです。ところが完成した葛布は黄色味を帯びており、これでは売り物にならないと言われてしまった。こんな経緯で大隈半島からはたった1年ほどで引き上げることになりました。いずれにしても、どうにか離婚されることなく大阪に戻ることができたわけです。

大隈半島での写真。山間の自宅や、工場の地鎮祭、軒先で撮影した妻の靖子さん、葛を加工した工場内など。(写真提供/大平憲一)

ある時、香港の《KOO SUN KEE》という会社から日本の壁紙を扱いたいとの連絡を受け、ペンキを扱っていたこの会社に壁紙を売ることになりました。社長のKOO氏が当時建設の進んでいた香港の高級ホテルに日本の壁紙を熱心に売り込み、いくつか採用されたのです。その後業績を伸ばし香港でも有数の企業に成長していきました。この頃は香港に年3、4回足を運んでいたと思います。1960年代当時はまだ海外にひょいひょいと行けるような時代ではありませんでしたが、東南アジアや、ヨーロッパ、アメリカなどを安井社長と巡り海外出張の経験も培いました。
大隈半島から戻って5年ほどが経過し30代も半ばが近くなった頃、これからの時代は東京で勝負しなければと思った私は安井貿易を退職し、上京することを決意したのです。私のことを息子のように思っていてくれた社長は東京の本社から私を引き止めに3度も大阪まで足を運んでくれました。それでも私の辞意が固いことを理解すると最後は快く送り出してくれ、その後も家族ぐるみの良い付き合いを続けていただきました。

日本から海外に輸出していた壁布(紙布)のサンプル帳。自然素材の風合いや糸目を生かした織物の柄が素朴で美しい。

1967年当時、香港にあったKOO SUN KEE社ショールームの外観。(写真提供/大平憲一)

こうして1970年、子どもが一つ半と三つになったばかりの年に家族を連れ上京し、テシードの前衛である義輝(よしてる)という会社で働き始めることになったのです。これが34歳の時の話です。

次号に続く

次号では、義輝入社以降の海外出張秘話、テシードの設立から壁紙の輸入にまつわる物語をお届けします。