壁紙貼ったら、大嫌いな家が帰りたい場所に。壁紙愛があふれて止まらない! -日下部 有香
人生において、自然と心が揺さぶられてしまうもの、愛して止まないものがあるのはとても幸せなことです。物心ついた時から好きだったものに生涯を捧げる人もいるかもしれませんし、人生半ばで突然何かと出会うこともあるでしょう。
都内在住の日下部有香さんは後者に当たります。2010年に念願のマイホームを手に入れたものの、年々汚れていく我が家に一時は帰るのがおっくうなほどでした。このままではいけないと一念発起し、元々は真っ白で、生活するうちに汚れの目立ち始めた「壁紙」に着目。ある日、家の一角の壁紙を貼り替えてみたところ、たちまちその魅力に取りつかれてしまいます。それからたった1、2年で、おそらく日本一といえるほどの「壁紙御殿」と化したのです。自身を「壁紙オタク」略して「壁オタ」と呼ぶに至るほど育った壁紙への愛。これほどハマった壁紙との出会いや、壁紙を軸に回る生活の様子をご紹介します。
日下部家の玄関ドアを開けるとまず目に飛び込んで来るのは、全面に広がるカリブの植物と怪しげなサルたち。同じデザインの壁紙ですが左右で色違い。天井まで巡らせた大胆な貼り方です。まるで密林の中、サルに囲まれているかのような廊下の写真をSNSに投稿したところ、この壁紙ブランド《MINDTHEGAP》の創業者自らが「Crazy Monkey Tunnel!」というコメントを添えリポストするほどのインパクトを与えました。
10年前、新築で4LDKの戸建てを購入した時はどこもかしこも真っ白。当然のことながら年月とともに汚れが目立ち始めます。住み始めた頃のワクワクも束の間、汚れていく我が家に嫌気が差し、帰るのがおっくうになるほど自宅への愛は薄まっていきました。このままではいけない、何かを変えなければ、と着目したのが「壁紙」。2018年の5月某日、日下部さんはある行動に出ます。場所は東京・恵比寿の小じゃれたエリアにたたずむ『WALPA store TOKYO』。大阪に本店を置く、全国でも珍しい輸入壁紙の専門店です。世界中から集められた多彩な壁紙が所狭しと並び、インテリア好きの間でも知る人ぞ知るスポットとなっています。この店では自分で壁紙が貼れることを広めるため、定期的に「壁紙の貼り方教室」が開催されています。日下部さんはこの教室に夫の泰宏さんを誘い参加しました。
「壁を変えたらすごくイメージが変わるんじゃないかと思ったものの何の知識もなく、そもそもまず家族に賛同してもらわなければと思ったんです。大の面倒くさがりで、貼り方の体験も途中から彼に任せてしまいました」
連れてこられた泰宏さんも「トイレくらいはこんな風にしてもいいかもね」と乗り気になってくれます。この後我が家が「トイレくらい……」にとどまらない驚きの変貌を遂げることになろうとは知る由もありませんが、この日、日下部さんの壁紙ライフはこうして幕を開けました。
これ以降『WALPA』に通い詰め、貼り方教室で仲良くなったスタッフの米澤さんにコーディネートを相談。そして後に「Crazy Monkey Tunnel!」と呼ばれるサルの壁紙と、リアルなテクスチャで描かれた大柄のパイナップル柄の壁紙に出会います。この二つをそれぞれ、家に帰った時真っ先に通る玄関先の廊下、そして一角の壁紙が剥がれ始め足の遠ざかっていた1階のトイレに貼ることにしました。この二つの壁紙は偶然にも、《MINDTHEGAP》というルーマニアの壁紙ブランドのもの。その後も日下部さんのお宅のあちらこちらを彩る、不動のお気に入りブランドとなります。
壁紙を貼る場所は決めましたが、建売で購入した3階建ての自宅は単調な平面の壁が少なく、トイレに至っては上を通る階段の凹凸がせり出した複雑な形状。自力では難しいと判断した日下部さんは、持ち込みの壁紙を施工してくれる業者を探します。持ち込みの商材で施工だけを受けてくれる工務店は少なく、海外産の壁紙は扱ったことすらないというケースがほとんど。日下部さんは方々に電話をかけ、幸運にもその後の施工を一任できる職人と出会いました。 初めて貼り替えたのは玄関先の廊下。淡い水色の背景にカリブの植物とサルたちが描かれた壁紙です。完成したその空間を目の当たりにした時の気持ちを「世界が一変した」と日下部さんは表現します。大嫌いだった場所が、大好きな場所へと変わる瞬間でした。
壁紙に夢中になり始めた頃のSNSを振り返り、私の発信する情報を見るのが嫌になってしまう人もいたかもしれない、そうポロリとこぼした日下部さん。
2013年にそれまで勤めていた不動産関係の仕事を辞め、自身の愛称だった「いなざうるす」を屋号に「いなざうるす屋」というフェイクグリーンのセレクトショップを立ち上げます。
「2010年の結婚を機に自宅を購入したのですが、それから少しずつインテリアにこだわるようになりました。家に遊びに来た友達にインテリアを褒めてもらえたのがうれしくて、たくさんの人におすすめのアイテムを発信しようとブログを始めたんです」
日下部さんのブログには多くの人からの反響があり、彼女自身もまた、それまで全く知らなかった世界に触れることになりました。
ブログの中でも特に反響が大きかったのが「フェイクグリーン」。フェイクグリーンとは、本物に似せて作られた人工の植物です。もともと植物が好きだったという日下部さんですが、新居では日当たりなどから育てにくいという問題に直面。そんな時に出会ったのが、当時あまり知られていなかったフェイクグリーンでした。日当たりや水やりを気にせず好きな場所に置けること、気軽に取り入れられることにひかれ、どんどんのめり込んでいきました。
こういった経緯を経て2013年にフェイクグリーンの専門店を立ち上げます。リアルさにこだわったフェイクグリーンのセレクトは評判を呼び、多くのインテリア好きから注目される存在になっていきました。さらに、2015年にはDIYで注目を浴びていたメンバーたちと「つるじょ」というクリエイター集団を立ち上げるなど、活動の幅を広げていったのです。
しかし、その後突如として壁紙に夢中になり、言葉通り「壁紙一色」となった日下部さんに対し、周囲のリアクションは決してポジティブなものではなかったといいます。
「気軽に取り入れられるフェイクグリーンと比べ、費用的な面でもハードルの高い壁紙のことばかり発信するようになって、突然何?という感じだったのかもしれません。提供を受けての宣伝だと思われることも多く、私の投稿を見るのが嫌になった人もいたと思います。でも自分が心から楽しいと思えることをやろうと、どこかで吹っ切れた部分もありました。
今では私の発信した情報を見て『私も壁紙を貼ってみたい』というコメントをもらうことも多く、共感してくれる人が徐々に増えているように感じます。壁紙を貼り始めた当初も今も、お金があるから高価な壁紙を買っているわけではありません。壁紙のために化粧品を変えたり、欲そのものを持たないようにファッション通販のアプリを消したり、優先順位を変えて壁紙代を捻出しています。自分が価値を感じるものがあればどうにかやりくりして手に入れたいと思う。私にとってはそれが壁紙なんです。それまで膨大なエネルギーを何かに注ぐという経験がなかったので、一つのものにこんなにのめり込んでいる自分に、自分自身が一番驚いています。節約すら楽しいんですよ。壁紙を貼れる場所を確保して、貼った後にもできるだけその壁紙が見えるように、大きな断捨離もしました。帰るのも嫌だった自宅に友人を呼びたくなり、こまめに掃除するようになり、本当に生活が根本から大きく変わりましたね」
3階には二つの部屋がありますが、以前は物置になってしまっていたそうです。しかし壁紙を貼り進めるうちに大好きな空間となり、現在ではそのうちの一つをフェイクグリーンのショールームとして活用しています。日下部さんにとって壁紙は、人生そのものを好転させるきっかけとなりました。